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エッセイ10

 あの世とこの世の境界を生きる
                  水野るり子



〔九七〕飯豊(いひで)の菊池松之丞という人傷寒を病み、度々息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺なるキセイ院へ急ぎいかんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛上がり、凡そ人の頭ほどの所を次第に前下りに行き、又少し力を入るれば昇ること始めの如し。何とも云われず快し。
 この松之丞という人は傷寒(腸チフス)にかかり、死にかけたとき、肉体を離れ、魂だけになって、菩提寺のキセイ院(喜清院)へと向かう。普通に歩くのではなく意志の力で、足に力を入れて飛び上がり、飛び上がりして空中を飛んで行ったようだ。(私もこのような飛行の夢を見たことがあるが、目が覚めたとき疲労困憊状態だった。無意識をフル稼働するということは大変なことらしい)。寺の門に近づくに人群集せり。何故ならんと訝りつヽ門を入れば、紅の芥子の花咲満ち、見渡す限も知らず。いよいよ心持よし。この花の間に亡くなりし父立てり。お前も来たのかと云う。これに何か返事をしながら猶行くに、以前失ひたる男の子居りて、トッチャお前も来たかという。お前はここに居たのかと言ひつヽ近よらんとすれば、今来てはいけないと云ふ。
 境内には芥子の花が満開で、そこはもう他界のようだ。魂は病んだ肉体を離れてあの世の入り口へとさまよっていったのだろうか。そこには亡き父や息子がいて彼に声をかけ、私たちが夢の中で見る亡き人との再会の場面のような懐かしさがある。しかし死んだ息子は近寄ってはいけないと父を制止する。触れてしまえば死の世界に入るからだろうか。此時門の辺にて騒しく我名を喚ぶ者ありて、うるさきこと限なけれど、拠(よんどころ)なければ心も重くいやいやながら引き返したりと思へば正気付きたり。親族の者寄り集い水など打ちそそぎて喚生かしたるなり。
 門のあたりで自分の名をさかんに呼んでいたのは、耳もとで呼ぶ親族の声だったらしい。こうしてこの人はあの世への道から引きもどされた。菩提寺というのはまさしくあの世への入り口でもあった。ただそこには悲壮感はなく、極楽に近い明るいイメージがある。遠野物語には魂の話がよく出てくる。死後に幽霊のように現れるもの、逆に死の前に人々の前に現れるものなど…。人々はそれに気づいて、その人の死が近いことを知る。魂というものや、あの世というところへの、今とは違う感覚がある。次の話など、今の時代から見るとまるでファンタジー作品のようであった。ある日仲間の者と共に吉利吉里より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のある所にて一人の女と逢う。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺に来べき道理なければ、必定化物ならんと思ひ定め、やにはに魚切り包丁を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てて死したり。
 その後の成り行きは仲間に見届けてもらうことして、家に帰ってみると、妻が言うには「恐ろしい夢を見ました。あまりに帰りが遅いので、夢で途中まで見に出たら、山道で何とも知れぬ者に脅されて、命を取られると思い目が覚めました」とのこと。それをきいて、夫が再びさっきの場所に引き返してみると、刺された妻は、連れの者の目の前でみるみる一匹の狐にな
ったという。夢の野山を行くときに、こうした獣の身を雇うことがあるらしい…と書かれている。妻は狐の身を借りて夢の中へ夫を探しに行くのだが、夫はその妻を旅の途上で実際に見かけて刺してしまう。(夢と現実がひとつに重なっている)。しかし刺された妻は無事で、雇われていた狐の方が死んでいる。これは夢と現実が入り組み、差し違えたようなあやしい話である。
 このように遠野物語の中では、人々が日常的に親しく生死に関わっていたように思える。生は絶えず死へと組み込まれ、死は生へと呼び戻される。そこから人々は多くの物語を紡ぎだす。人々は野に生きる自然のものたちのように、その背中はつねに死と接している。生まれ変わりの話も多い。死んでから生まれるまでの期間が短いのは慶事だという。また土葬した墓場に樹木が生えてくれば「墓の主は何処かに生まれ変わったのだ」といわれる。拾遺〔二四五〕
 こういう話に触れていると遠野物語のなかの人々の死生観のようなものが、それとなく伝わってくる気がする。ちょっと前までの日本人には親しい感性だったかもしれない。それは一種の諦念にも通じるようだし、死と生を通底する大きな流れに、自然の一部として身をゆだねているような感性であるかもしれない。自然と共生しているような生き方であれば、個の一回性…というような死生観とはちょっと違うものであろう。
 先年遠野を訪れ、秋の空の下でデンデラ野を歩いた。そこはかつての(姥捨て山)といわれた場所である。人々は六十歳になるとそこに暮らさなければならなかった。ちょっとした細道をひょろひょろ上ると、ススキや雑草の茂った高みがあり、木立の陰にかまどなど炊事の跡も遺っている。古いあずまやもある。振り返ると(呼べば届くほどの)目の下に村落が見える。老人たちはこの丘に寝起きして、口を糊するために、昼は村へ降りて働き、夕べには寝に帰ったのだろうか。想像していた奥山の姥捨てとはあまりに違うこの生と死の接する距離の近さ、そのあっけらかんとしたたたずまいに言葉が出ない。この世の生き死にとは、本来このようなものであるかもしれないとは思いながら。
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エッセイ9

  トヨとサダ    坂多瑩子

 『遠野物語』には山人がよく出てくる。不思議な存在だ。「山女」に「山男」。山女は名前や生家やその親戚筋など、記録として残っている者はいるが、山男のほうは「あの山男はうちの甥で」と名乗り出ているような家はない。それにどちらかというと、背高く目がギラギラしていて色はちょっと違って、という外見の描写止り程度が多い。でも山男の子どもは育たないといいたいのか、六話七話では子どもを食べちゃう『ジャックと豆の木』の人食い鬼のような山男も出てきて興味深いが、今回は「山女」として生きたトヨとサダについて考えてみた。
三 山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛と云う人は今も七十余にて生存せり。此翁、若かりし頃猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りて居たり。顔の色極めて白し。不敵の男なれば直ちに銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。其処に駆け付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪は又そのたけよりも長かりき。後の験にせばやと思ひて其髪をいささか切り取り、之を綰ねて懐に入れ、やがて家路に向ひしに、道の程にて耐え難く睡眠を催しければ、暫く物蔭に立寄りてまどろみたり。其間夢と現との境のやうなる時に、是も丈の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立去ると見れば忽ち睡は覚めたり。山男なるべしと云へり。
 とても幻想的。長い黒髪を梳っている色の白い美しい女が岩に腰かけている、ほれぼれとする日本画を見ているようだ。しかしなぜ鉄砲で撃たなければならないのか。男をたぶらかす妖怪の類いと勘違いしたのか。不敵な男と誉められている嘉兵衛。後半はもっと摩訶不思議な展開である。女の黒髪を切るとこまではいいとして、狐でも物の怪でもない人間の遺体を見たあとで眠くなる?大量の血だって流れていたかも?と思うと、やはり山男は魔術でも使うのか?しかしここでは現実的なことは書かれていない。だから妄想を膨らますのだが、実際起きた事件である。撃たれた女は*トヨという実在者。トヨの人生をみると哀しい。トヨが嫁いだ古屋敷長兵衛は遊郭通いの女狂い。トヨは精神に異常をきたして離縁される。二十二話で佐々木喜善の曾祖母の通夜の様子が書かれているが死者の娘にて乱心の為離縁せられたる婦人も亦其中に在りき。この婦人がトヨである。この曾祖母ミチは娘の狂気を気に病んで鴨居で首をつって死んだとも云われている。ほどなくしてトヨも病死する。当時は土葬で、暦の日柄によってはすぐ葬式ということもあり、埋められたあと百人に二、三人は生き返りがあったという。というか、死んだという確認も素人がする場合があるから間違えだって当然起る。実際棺の上に手を突き出している遺体もあったというから恐ろしい。それで蓋をするときは、一カ所穴をあけて、竹の節をくりぬいた空竹を土中に差し込んでおいた。ただし一度死んだ者として処理された場合は、行き場は山しかなかったらしい。トヨも生き返って山に入ったのか。事実はどうあれトヨは山姥のような山女になるまえに鉄砲で撃たれて死んだ。この話が老いさらばえて髪ぼうぼうの垢だらけの女が岩に腰かけていたとしたらどんな印象を受けるのだろうか。
 トヨは受け身の状態で「山女」になってしまったが、自ら「山女」の道を選んだ者もいる(と思う)。八話にあるサムトの婆の場合は、黄昏に女や子供の家の外に出て居る者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ・・・・若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなりとある。誘拐か自らの覚悟の家出か、意見は分かれるだろうが、私は自分の意志であったと思いたい。サムトの婆と呼ばれたこの女はサダという名前であった。トヨもサダも名家出身である。サダは幼心に大人達の噂話に耳を傾け、自分の決められた人生に疑問をもっていたのではないか(と思う)。一般に女は家事、育児、婚家先での人間関係それに男と同じ重労働が課せられる。サダは他の女達と違っていたと思うが、自由な生き方は無理である。遠野の気候や地形を考えると、山の中で生活する知恵や技は幼いうちから教えられていたであろう。だからサダは山の恐怖や村共同体を出る悲壮感より、むしろ自由という希望にかけて山に入ったのでは、と勝手な妄想だが、彼女は村の習慣や掟に対して、神隠しにあうという衣を着て反抗したのではないか(と思う)。サダは生きのびて三十年後に実家にあらわれる。老いさらぼひて・・・人々に逢ひたかりし故帰りしなり。佐々木喜善の『東奥異聞』によるとそれから毎年帰ってきたが、そのたびに大風雨があるので村人からクレームがついた。実家では仕方なく(そうあってほしい)山伏などの法者に道切りの法をかけてもらう。サダは、それから帰ってはこなかった。なぜ三十年もたってあらわれたのか。もしもだけど、サダは山男の一人と暮らしていた。頭のいいサダのことだから(そうでしょう、知恵があったから三十年も生き延びてこられた)生活はそれなりに充実していたかもしれない。でもそのつれあいにも死なれてしまった。だから寂しさゆえにふと生まれ育った家や親族が恋しくなったのではないか。
 そんなことを思いながら、闇に消えた女達をもう少し知りたいと思った。
*佐々木喜善の祖父萬蔵の妹で弘化頃の生まれ(出生の年月 
 は戸籍にはない)
*参考資料『山深き遠野の里の物語せよ』菊地照雄 梟社 
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エッセイ8

   幻のサクランボ農園

                   佐藤真里子

  六四 金沢村(※かねさはむら)は白(しろ)望(み)の麓、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六、七年前この村より栃内村の山崎なる其かかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷ひ、またこのマヨヒガに行き当たりぬ。家の有様、牛馬鶏の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとするところのやうに見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるやうにも思はれたり。茫然として後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してつひに小国(をぐに)の村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて実(まこと)とする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来たり長者にならんとて、婿殿を先に立てて人あまたこれを求めて山の奥に入り、ここに門ありきといふ処に来たれども、眼にかかるものもなくむなしく帰り来たりぬ。その婿もつひに金持ちになりたりといふことを聞かず。(注 上閉伊郡金沢村)

 東北の寒村に生まれ、小学校に入学するまでは、そこに住んでいたせいか、子供の頃にはこのマヨヒガによく似た大人の体験話を耳にした。マヨヒガに行き当たった者が、再び訪れようと、どんなに探しても、二度とは見つからないということが、どの話にも共通している。子供だったわたしは、その話を本当の事として信じていた。怖いけれど、探し当てたいと思った。この六四番の話にあるような、欲深い気持ちからというよりは、自分が生きている世界の他にも別な世界があり、マヨヒガはその境界、入口のような気がしたからだ。子供時代は、現実が厳しかったので、別の世界を望んでいた。大人になったいまは、この世界が不平等に満ちていることを痛感するたびに、マヨヒガの存在を思うようになった。この世だけがすべてなら、余りにも酷い現実が山ほどある。マヨヒガは、別な世界の境界、入口なのだと、いまも信じたい。
 あのサクランボ農園は、マヨヒガのような異界との境界、入口として、現実と交差していたのだろうか。4年前、母を亡くしたばかりの従妹を慰めようと、サクランボ狩りに誘ったときだった。従妹とは子供の頃に、長く一緒に暮らした時期があり、思い出話が尽きなかった。おしゃべりをしながらも、同じ場所を何度も歩きまわっていることに気がつく。新聞広告で知り初めて行くサクランボ農園には、なかなか辿り着けなくて、諦めかけていたから、奇跡のように突然に現れた、地味で粗末な看板を見つけたときは嬉しかった。矢印の示す方へとわたしたちは進んだ。通りから少し入った小道が、急に、深い山奥の道になって、何か異質の濃密な空気が流れていた。さほど歩かないうちに、サクランボ農園に着いた。周囲の景色が見えないほど、サクランボの樹がいっぱいで、とても広い農園だと思われた。入口には、賽銭箱のような半ば朽ちかけた木箱があり、たぶん、そうだと思い、サクランボ狩りの入園料のつもりで、そこにお金を入れた。無人であることが、不用心というよりは、むしろ不気味に思われた。そんな不安も、すぐに消えたのは、なかに足を踏み入れると、楽園のような眺めが広がっていたからだ。どの樹にも、枝が折れるくらいに、サクランボがたわわに実り、まるで、咲く花のようなつぶつぶの小さなあかりが、樹という樹に灯されていた。大好きなアメリカンチェリーもある。他にも知らない品種がいくつかあり、それぞれが魅力的な甘さだった。わたしは従妹といっしょに来ていることも忘れて、独りで勝手にあちこちの樹をめぐり歩く。満腹感を無視し、夕暮れが迫っているのも気にせずに、次から次へと、摘んでは口に運んでいる。やがて従妹が近くに来て、もう、そろそろ…と、声をかけるまで、果物好きで、しかも食いしん坊のわたしは、止めることを知らなかった。帰ろうかというときになって、なんとなく辺りの様子が不自然であることに気がつく。あちこちに、摘みとるために上る脚立があり、収穫したサクランボを入れる容器が積まれているし、なかには、サクランボが入っている容器もある。ここで、作業をしている人が、何人かいるような感じなのに、姿が見えない。辺りは、夕暮れどきになっていた。ついに、人の姿を見ることはなかった。ただ、誰かがいるような、生温い気配だけが漂うサクランボ農園を、わたしたちは、そっと、立ち去った。次の週に、もう一度、行ってみたが、この辺りと思う場所には、あの地味で粗末な看板は無かった。試しに入ってみた小道も、どんなに歩いても、農園には行き着かない。それ以来サクランボが実る季節になると、記憶を頼りに行ってみるのだが、未だに探し当てることができない、幻のサクランボ農園である。
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エッセイ7

   水分(みくま)り
                  広瀬弓

 二九 鷄頭山は早池峯の前面に立てる峻峯なり。麓の里にてはまた前薬師ともいう。天狗住めりとて、早池峯に登る者も決してこの山は掛けず。山口のハネトという家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。きわめて無法者にて、鉞にて草を苅り鎌にて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞のみ多かりし人なり。ある時人と賭をして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、その岩の上に大男三人いたり。前にあまたの金銀をひろげたり。この男の近よるを見て、気色ばみて振り返る、その眼の光きわめて恐ろし。早池峯に登りたるが途に迷いて来たるなりと言えば、しからば送りてやるべしとて先に立ち、麓近き処まで来たり、眼を塞げと言うままに、暫時そこに立ちている間に、たちまち異人は、見えずなりたりという。
 水を求めて旅するようになった昨今の気持ちの顕れだろうか、今回『遠野物語』を読み返して、以前は「ざしきわらし」、「かっぱ」、「娘と馬」などの物語に隠されて読み飛ばしていた「地勢」の話に関心が向いた。
遠野は昔湖だったと言い伝えられていることや、遠野郷のトーはアイヌ語の湖という語から来ていて、七内矢崎や来内もナイという沢や谷を表すアイヌ語が使われているという記述に興味を覚えたのも、集落発祥の地や、聖地として祀られた場所には必ずと言ってよいほど湧き出す水の存在があると知ったからであった。
 平野の中心を流れる猿ヶ石川を遡っていくと早池峰山に当たる。北上高地の最高峰早池峰山は、東に剣ヶ峰、西に中岳、鶏頭山、毛無森を連ねた雄大な山容を持ち、古代から山岳信仰の霊場として人々の信仰を集めてきた。第二話「神の初」では最も秀でたる山、最も美しき山として神話で語られている。詩人で童話作家の宮澤賢治も、圧倒的な存在感や可憐な高山植物に魅せられ、多くの作品を残している。
 私が遠野を訪れようと思ったのは、湖だったと言い伝えの残る肥沃な盆地を作った猿ヶ石川の源流を辿りたい思いに駆られたのと、築地小学校で早池峰神楽東京公演を見たことが大きなきっかけと思う。
 岩手県花巻市に伝承される早池峰神楽は、早池峰神社に奉納する岳(たけ)神楽と大償(おおつぐない)神社に奉納する大償神楽の二つがある。いずれも早池峰山を霊場とする修験山伏たちによって代々舞い継がれてきたと言われ、祈祷の型などを神楽の中に取り入れていることから、「山伏神楽」とも呼ばれている。
 東京公演は築地小学校の体育館に二間半四方の注連縄を巡らし、楽屋と舞台の境に神楽幕を張って作られた神楽舞台で、鶏(とり)舞(まい)、三番叟(さんばそう)、山の神、天降り、権現舞など八つの演目が早池峰神楽保存会のメンバーによって行われた。珍しい面や衣装や道具の中でも特に際だつのは鳥兜だ。頂に雌雄の鶏の姿をした飾りがあり、兜の両側に大きな板(しころ板)が付いていて、蝶が羽をゆるやかに上下するように羽ばたいた。鶏舞はイザナギノミコトとイザナミノミコトの二神の舞を、鳥兜をつけた舞手が舞うものだった。鶏は昔から悪霊を払うと信じられているため、舞台の不浄を清める舞とも言われている。      
 引用した第二九話に「天狗住めりとて早池峯に登る者も決してこの山は掛けず」という記述がある。この山とは早池峰山と峰続きにある鶏頭山で、天狗が住むと脅して村人を遠ざけようとする何者かの意図を感じる。そこにはおいそれと会うことを許さない、あるいは触れられたくない存在があったのではないだろうか。神楽のシンボルである鳥兜は聖地としての鶏頭山を象徴しているようにも思えた。「山の神」に登場した舞手は鳥兜を付け赤い顔に金色の目と大ぶりの鼻をしていたが、天狗とは異なる面であった。山の神とはオオヤマズミノミコトのことで、春は里に降って農業の神となり、秋には山へ帰り山の神様になると言われている。そのため農業や林業に従事する人々や、神楽衆にとって、最も大事な演目だそうである。
 柳田国男は、山人とは日本列島に遥かな昔から生存を続けてきた先住異族の子孫と考え、伝説を収集していた。その山人の消息を遠野の伝承に見いだし『遠野物語』や『山の人生』に盛り込んだが、ついに実在証明を果たすことはできなかった。
これら早池峰神楽や山人の物語から辿り着いた鶏頭山を調べているうちに、中腹に七折の滝があるとわかり、水をもらいに行きたくなった二〇一〇年の夏、早池峰神社の向かいの宿坊に泊まり、翌朝一人鶏頭山の滝へ向かった。なだらかな山路をひたすら歩けば、人の姿に驚いた山鳥が、時折草叢から飛び出し林の中へ消えて行く他は、誰にも会わなかったし誰もいなかった。高さ約五十メートル、落下する流水が滝の途中に張り出した岩場にぶつかり対岸の壁にぶつかって幾重にも折れて滝壺に入ることから七折の滝と呼ばれる。その日、滝の三段目は勢いよく跳ね上がり、水量の多いことが見て取れた。水を汲みながら水源の分岐点には流水の分配をつかさどる水分りの神がいることを思い出していると、「ミクマリ・・・」滝の音に混じって風のような言葉を聞いた気がした。
 遠野神話ゆかりの地は天狗ならぬ龍神の気配に満ち満ちていた。
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エッセイ6

「遠野物語」の鳥の話
               絹川早苗
 五一話 山にはさまざまな鳥住めども、最も寂しき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌より駄賃附けの者など峠を越え来れば、はるかに谷底にてその声を聞くといへり。昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子と親しみ山に行き遊びしに、男見えずなりたり。夕暮れになり夜になるまで探しあるきしがこれを見つくることを得ずして、ついにこの鳥になりたりといふ。オットーン、オットーンといふは夫のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴き声なり。
 五二話 馬追ひ鳥は時鳥に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のやうなる縞あり。胸のあたりにグツゴコ(口籠)のやうなるかたあり。これもある長者が家の奉公人、山へ馬を放ちに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがつひにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野にゐる馬を追う声なり。年により馬追ひ鳥里に来て啼くことあるは飢饉の前兆なり深山には常に住みて啼く声を聞くなり。

鳥の話はこのほかに五三話があり、いずれも少年か少女が、何かのきっかけで小鳥になってしまうという話である。五三話は、姉が焼き芋の柔らかいところを妹に食べさせたのに、妹は、姉はもっといいところを食べたに違いないと思って姉を殺すと、姉はたちまち鳥になりガンコ、ガンコと啼いて飛び去る。ガンコとは方言で固いところという意味、妹は自分が誤解していたことを知って、同じように死んで「包丁かけた」と鳴くホトトギスになったという話。これらは鳥の鳴き声の「聴きなし」と羽根の色や形などの連想から生まれた話で鳥の前世譚とも言われる。五一話のオット鳥はコノハズクのことで、娘が恋人のことを呼ぶのに夫というのは不自然だが、類話は岩手県に多く、それらは若夫婦の話として語られているという。五二話の馬追ひ鳥はアオバトの方言名、奉公人といっても、たぶん少年であろう。これらの話はいずれも物悲しく哀切な色調を帯びている。 
 人が鳥になる話は、「白鳥の湖」のハクチョウ、グリム童話「七羽のカラス」など西洋にもあるが、その多くは魔法や呪いにかけられたからで、それが解ければ元の人間に戻る。しかしここでは、ある出来事や想い、執念などによって、自ずから人の身に起きてしまうことで、有名な「鶴の恩返し」も、逆の現象ではあるが、鶴の想いが人に変身させるのである。それが解けるというより、破られるのも人間の欲心で、魔力ではない。また「古事記」では、ヤマトタケルノ命は死ぬと八尋もある大きな白鳥になって飛んで行ったと記されている。鳥は羽根を持っているので、この世とあの世を往き来する、またはそのあわいに生きるものと見做されていたようだ。鳥に限らず動物一般も、変身しても皆同次元に存在していて(あの世でさえ)、『魔笛』の「夜の女王」のような異次元の闇の世界に行くのではない。しかし西洋とのこの違いも、言葉を解さないものは精神性、理性のないものとするアリストテレスに始まった西洋思想、キリスト教の教えがもたらしたもので、それ以前の、ギリシャ神話の時代では、人間も動植物もまだ地続きだったようだ。もともと古代人は、動物たちは人間とは違っていても人間と同じような心と感情を持っていると考えていたのではないだろうか。その意味でも「遠野」の世界は洋の東西を問わず、人類の、人間世界の淵源ではないかと思えてくる。
チベットには、仏典の一つとして、チベット人仏教徒によって書かれた『鳥の仏教』がある。この書は、長い間、本国のチベットでさえ偽経典として無視されてきたのだった。しかし民衆の間では、民話の「のど青鳥の物語」と合わせて、楽しく読まれていたという。のど青鳥とは、チベットでは神聖な鳥とされているカッコウのことで、内容は、そのカッコウに観音菩薩が化身して、訪れてくる様々な鳥たちに仏陀の真髄を説くという構成になっている。思想書というより大衆への啓蒙書の性格をもっているが、「鳥のダルマのすばらしい花環」というタイトル通り鳥たちの鳴き声や姿を髣髴とさせる語り口は翻訳で読んでも楽しく、原文で読むと音楽的でもあるという。最近見直され、インドで復刻されたこの小さな書は、チベット仏教の独自性を伝える仏典として、中国の弾圧から脱出した人々の間で大切にされるようになったという。また西欧にもそれが持ち出され、これへの強い関心を呼び起こしているとの事である。『鳥の仏教』(新潮社)の訳者・中沢新一氏も、これを翻訳した動機は「アニミズムをひとつの思考として、論理として、再評価すべき時代が来ているように感じられ」たからで、この書に「不思議な先駆性」を見出す。伝統的な仏教そのもの(他の宗教も同様に)も人間界だけでなく地球上のすべての生命圏を包みこむ惑星的なものに生まれ変わる時代に来ているのではないか、その意味でこの書はその方向を象徴しているとも述べるのである。
鳥については私も不思議な体験をした。犬猫大好き人間だが、上京後の集合住宅住まいでは、鳥を飼うことが多かった。その頃は飼っていなかったが、相棒が亡くなる寸前、ホオジロがやってきた。庭先にいるのを見つけ追い詰めると、難なく手でつかまえる事ができたのだった。よく考えれば飼い鳥が逃げだして、春の早い時期なのでまだ餌がとれず弱っていたのかもしれないが、その時は急死した彼が身代わりとして私に残して行ったのでは…と思ったのである。その後二年あまり私を慰めながら共に暮らし、一九九二年に彼の後を追った。その鳥の写真は他の死者たちと共に今も仏壇の上に飾ってある。 
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エッセイ5

   河童の手いでたり
        岡島弘子

五八 小烏瀬川の姥子淵の辺に、新家の家という家あり。ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに行きし間に、河童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽に覆われてありき。家のもの馬槽の伏せてあるのを怪しみて少しあけて見れば河童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その河童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりという。

 その美容院に行ったあと数日してかならず恐ろしいことが起こることに気づいた。なかでも怖かったのは二〇一一年三月八日に美容院を訪れ髪を整えてもらったあとのことである。三月十一日のパーティに出席するための出発の準備をしていた。その最中に震度五強の地震にみまわれたのだ。これがかの東日本大震災で、各地に大きな被害をもたらし、いまなお復興もままならない状態である。計画停電、買占め、断水などと未曽有の出来事がつぎつぎ起こり、被災地からやや離れたこの地に住んでいる私もパニックに陥りトラウマとなった。
 この事件は日本全体をゆるがしたが、私の個人的体験もある。七月二十一日に訪れたあと、二、三日して、なんだかだるいのに気づいた。体温を計ると高い。病院に行くと胸膜炎と診断された。夕方になると熱が出て、咳も出る。抗生物質と咳止めと解熱剤を飲み、ほぼ一カ月かかってやっと治した。抗生物質は副作用でおなかが壊れやすくなるため、腹巻をしたり正露丸をまいにち飲んだりと、それはそれは苦労した。
 まだある。八月十九日に髪を整えてもらって数日後、今度は交通事故にあった。子どもの飛び出しである。子どもはかすり傷程度。自動車保険に入っていたので実質的被害はたいしたことではなかったが、精神的にダメージを受け、車の運転ができなくなった。
 まだまだある。口内炎が三カ月たっても治らなくて、歯医者に行ったところ、ガンかもしれないといわれ紹介状を持たされ大病院で検査をするようすすめられた。舌の裏にできているので、食べるのも喋るのもつらい。それから一カ月後ようやく治ったが、どうやらこじれた口内炎だったらしい。検査に行かなくてよかった。でも精神的にすごく追い詰められたのはいうまでもない。
 そしてインフルエンザ。香港A型で鼻水と熱に苦しんだ。
 こうしてみると昨年からの恐ろしい出来事はどれも私がこれまで生きてきたなかで初めて体験したものばかりである。
 おもいきって美容院を変えてみた。それからはなんとか無事にすごしている。ある日、新しい美容院でシャンプーをしていたとき、顔の覆い紙が吹っ飛んでしまったことがある。美容師が詫びながら話してくれたところによるとここのシャンプーは、水圧を高くして汚れなどをはたきおとす方法でおこなっている、とのこと。それを聞いて、ふと閃いたものがある。このシャンプーのやりかたでいくと髪の表面を削ることなく洗い流しているのではないか、と。ということは、前の美容院では髪を梳るようにして洗い流していたふしがある。そういえばシャワーの水流にまぎれて皿のようなものが剥がれおちていたような気配があったのを思い出した。皿ばかりでなく甲羅も。前の美容院でシャンプーするたび、河童は身体の一部を少しずつ失っていった。つまりいのちを削られていったのだ。私が体験したかずかずの恐ろしい出来事も、そのことと関係ありそうだった。
 国民百科事典(平凡社)によると,河童は水中に住む妖怪の一種で東北から沖縄までの各地に分布している。水を支配する神の化身、あるいは使者として信仰されていたが、信仰の衰えによってしだいに妖怪として数々の伝承を生むにいたった、ということである。
 五八話では河童は姥子淵に馬を引きずり込もうとした。こちらの世界を河童の世界に引き込もうとしたのだ。ここには挙げなかったが、五五話は、河童が女に子を孕ませる話である。いずれも代々続く名家での出来事。奇形児が産まれてしまった場合、河童の子として処理された、ということもありうるにちがいない。ここでは河童はその世界を拡げ、こちらの世界にくい込むことに成功している。五八話にもどると、馬を淵に引き込もうとしてかえって馬に引きずり出されて厩まで行ってしまった河童は馬槽の中に逃げ込む。村人に見つかってしまった河童は、村を去って、今は相沢の滝の淵に住んでいる、ということである。こちらの世界に河童の世界を拡げようとして失敗、いまは小さくなって暮らしているらしい。
 ちなみに私のあだ名は、河童の川流れ。ちいさいころは笛吹川で毎日のように遊んでいた。ある日川の真ん中に出てしまい、速い流れにひきこまれ、下流へぐんぐんと流されてしまった。私の泣き声を聞いた大人に助けられてから、この名で呼ばれるようになった。
 前の美容院で皿や甲羅を流されていのちが危なくなった。あれは私。
 そう、何を隠そう、私が河童なのである。
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エッセイ4

    悲しいまでに冷たい
           中井ひさ子

四一 和野の佐々木嘉兵衛、ある年境木越の大谷地へ狩りにゆきたり。死助の方より走れる原なり。秋の暮れのことにて木の葉は散り尽くし山もあらはなり。向かふの峰より何百とも知れぬ狼こちらへ群れて走り来るを見て恐ろしさに堪へず、樹の梢に上りてありしに、その樹の下をおびただしき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。その頃より遠野郷には狼はなはだ少なくなれりとのことなり。
四二 六角牛山の麓にヲバヤ、板小屋などいふ所あり。広き萱山なり。村々より苅りに行く。ある年の秋飯豊村の者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺一つを持ち帰りしに、その日より狼の飯豊衆の馬を襲ふことやまず。外の村々の人馬にはいささかも害をなさず。飯豊衆相談して狼狩りをなす。その中には相撲を取り平生力自慢の者ありさて野にいでて見るに、雄の狼は遠くにをりて来たらず。雌狼一つ鉄といふ男に飛びかかりたるを、ワツポロ(上張り)を脱ぎて腕に巻き、やにはにその狼の口の中に突込みしに、狼これを噛む。なほ強く突き入れながら人を喚ぶに、誰も誰も怖れて近よらず。その間に鉄の腕は狼の腹まで入り、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を噛み砕きたり。狼はその場にて死したれども、鉄も担がれて帰り程なく死したり。 
四二の物語は雌狼が自分の子三匹を殺されたどうしようもない怒りを、それに対して人間が生きていく為の鉄の思いが、実に端的に語られている。生きていく上での業までも感じさせられる。また、狼と鉄と戦い方が互いにいさぎよいのだ。四一に狼は群れをつくるとあるがそんなことはしない。雄狼はもちろん共にでなく群れもなさず雌狼一匹で戦うのだ。鉄は刀や鉄砲のような武器を持たない。ワッポロを腕に巻き狼の口に入れるところがかっこいい。そして、相討ちとなるのだ。同じ立ち位置にいる一匹と一人。私にはとても心地よかった。でも、それだけで物語に惹きつけられたわけではない。私は狼が好きなのだ。いや、あの日からからだの隅
に狼の影が座っている。それゆえ、鉄が狼の腹の底で掴んだものは深く鎮めている魂だと感じた。魂をわし掴みに取り出されたのだ。狼自身が消える。だからこそ、狼も鉄の腕骨を噛み砕きからだの底に置いてある魂を持ち去ったのだ。魂は取り出してはいけないのだ。そこには死があるのだから。魂は鋭く静かに感じあうものだと遠い日に知らされた。
・・・小学生の終わりに近づいた頃、母が死んだ。私はとまどい、気づくと母をさがし、そしてぼんやりしていた。そんな私は春休みに母の実家にしばらくあずけられた。山里深くにある萱葺き屋根は少々重たげで子供心になじめなかった。友達もいなかった。実家の裏が山に連なっていて、一人でぜんまいやわらびを採るのが私の遊びだった。祖母はいつも頷いてくれた。あの日「あぶないけん、あんまり奥へいったらいけんよ」祖母の声を背に聞き、山に入った。山桜がきれいだった。だが、風は冷たく樹間には、何かがおし鎮められているような気配があった。もちろん人影はない。樹の向こう側からあらわした姿を、私は犬だと思って「おいで おいで」と手を振った。しかし、その姿は微動だにもせず立ち、こちらを見つめていた。目の鋭さ、鋭いからだつきが、犬とは違うことを語っていた。遠野の物語の三六では・・御犬のうなる声ほど物凄く恐ろしきものはなし。とあるがうなり声も上げず突き抜けて見ている目があった。その目が私を惹きつけた。忘れられなくなった。
 四一では・・走り過ぎ北の方へ行けり。その頃より遠野郷には狼はなはだ少なくなれりとのことなり。とある。遠野郷から群れてこちらの郷に渡って来たのか。群れから外れた一匹狼だったのだろうか。私は毎日狼に会いにいった。もちろん祖母には内緒だった。言ったら悲鳴を上げただろう。だからといって狼と親しくなったわけではない。いつも三メートルほど離れて向き合っていた。いや、にらみ合っていた。互いにそれ以上近づいてはいけないという本能が働いたのかもしれない。ただいつも見つめ合っていた。でも、狼の気持なんてわからない。狼だって私の気持がわかるはずがない。気持が通じ合わない楽しさだってある。が、その日は違っていた。狼の鋭い目が、いっそう鋭くなっていた。からだが小刻みに揺れてた。私は食べられるかもしれないと神経を研ぎすました。不意に私のからだがゆるぎない冷たさを感じた。突き刺されたようだった。懐かしさをも伴って。魂だ。直感した。狼も私の心の底に鎮めている魂を感じただろうか。狼は目を細めると、小さく吠えるように空を仰ぎ、くるりと背を向け去った。
 その夜、星を見ながら、生きているものが心の奥深くに鎮めている魂を思った。なぜか涙がこぼれた。そして、狼の後ろ姿を思い、母の死を思い、自分の魂のなかに埋まるよう寝た・・
以来私の中のあの狼に会っていない。遠野郷の狼の死、鉄の死を再び思った。魂の行方を考えた。狼は鉄の魂をもっている。鉄は狼の魂をもっている。それゆえ、又どこかの郷でそれぞれ生きているのだろう。別に、狼が鉄の魂を持っているからといって、人間にならなくてもいい。好きなものになればいい。鉄だってそうだ。すべての魂が悲しいまでに冷たくて懐かしいものだから。  
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エッセイ3

  恋の行方はオシラサマ考
          福井すみ代


 六九 今の土淵村には大同という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞という。この人の義母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止れる鳥を落としなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪みて斧をもって後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時よりなりたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。・・・
 九月の下旬に訪れた遠野は、鮮やかな黄一色の稲穂、
群青色の山々が遠野を包み、穏やかな佇まいだった。
 東日本大震災後、数カ月経ていたので、一見平穏なように見えたが、遠野の宿泊所「たかむろ水光園」への坂道は壊れ、遠回りして行った。宿泊の建物と配水所の間には大きな鉄板が敷いてあった。
 私が行った直前まで園は自衛隊の宿泊所になり、早朝の食事の準備から、夜半まで多忙の日々が続いたとのことであった。
 遠野の市街は、「遠野物語発刊一〇〇周年」の平成二十二年の直後の年という事もあり、各施設はとても、充実し、工夫されていた。
 遠野市立博物館では、特に遠野物語についての行き届いた展示がなされていたほか、水木しげるが描いた
新作アニメ「遠野物語」が上映されていた。物語の代表的話である「オシラサマ」と「河童」の二作品である。色彩の美しさと、映像の巧みな運びで物語は生き生きと展開していった。 また、伝承園の御蚕神堂(オシラ堂)では、さまざまな千体ものオシラサマが展示されており、圧倒された。
 遠野物語六十九話は、オシラサマの起源説話として有名な、娘と馬の愛情物語で、私が田舎(静岡県)に疎開した時、似たような話を、祖母から聞いたので、とても興味を持っていた。この類話はすでに古く中国でまとめられた「捜神記」という説話集に収められている。こちらは大官の娘が馬に冗談に話した事を馬が真に受けとった物語であるのに対し、遠野物語では、貧しき百姓の娘がその家に一匹しかいない馬を真剣に愛し、夫婦になったという悲恋物語である。娘は死んだ馬の首に乗って天に昇って、オシラサマになったと書かれている。捜神記では、数日後に庭の桑の大木の枝の上で娘と馬が発見され、どちらも蚕と化して、糸を吐いていたと書かれている。
 柳田国男は、佐々木喜善から聞いた話をそのまま簡潔に叙している。説話の記録としての文は優れていると思うが、いかにも説明不足で、物足りなく感じる。
 柳田は遠野物語刊行後も遠野に関心を持ち続け、佐々木喜善に遠野譚の収集を奨めた。佐々木は多くの事実・話を集めた。しかしその発表は遅れに遅れ、佐々木の死後の昭和十年になって、その拾遺二九九話を付した「遠野物語増補版」が出版された。
 拾遺の中でもオシラサマの話は重視され十一話に及んでいる。その中でオシラサマの神体は男・女二体のものが多いが、もっと多数のものもあること、頭の形も,丸頭のもの、烏帽子を付けたものなどの外、馬頭形のものも少なくないことなどが書かれている。
 オシラサマの由来についても三例述べているが、その中に、父が馬を殺したのを見て、娘が悲しんで、私はこれから出ていくが、父が後に残って困ることが無いようにしておく。三月十六日の朝、庭の臼の中を見ろと言って娘は馬と共に天上に飛び去った。其の日になって臼の中を見ると、馬の頭をした白い虫がわいていた。それを桑の葉で養い育てたというものである。
娘が悲しむと共に父の生活の事を思いやるという、感動的な養蚕起源神話である。後世の人がオシラサマを信仰するのが当然と想わせるような話と思う。
 柳田は更に戦後の昭和二十六年になって、オシラサマ研究の集大成ともいうべき「大白神考」を出版している。更に其の後になっても自分の説の修正について語っている。其の関心の深さに驚くばかりである。柳田は、それほどオシラサマを重要な問題と考え魅力的なテーマと思ったのであろう。
私も庶民の家の神オシラサマを見て非常に惹き付けられた。それだけに逆に、あまりに明るく立派な建物の中で、例外的に大きく、素晴らしく豪華なオセンダクを着けたオシラサマが、常時陳列されていたり、数の多さを誇るような収集をして、一堂で展示がなされていたのに対して、どうも違和感を覚えてしまう。
オシラサマは気難しくて扱いにくい神かもしれないが、各々の家で祀られるのが最も好ましいと思う。 そのようにする環境造りをする施策が望ましい。
遠野は曲がり屋が多く、一つ屋根の下で人と馬が共に暮らし、養蚕もした独特の文化を持つ地域で、オシラサマ信仰の最も相応しい土地だと信じている。
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「二兎」3号エッセイ2

    ザシキワラシと水底で住む
                   佐伯多美子

 一七 旧家にはザシキワラシといふ神の住みたまふ家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。をりをり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎といふ人の家にては、近き頃高等女学校にゐる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き違ひ大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物をしてをりしに、次の間にて紙のがさがさといふ音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思ひて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時の間坐りてをればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思ヘリ。この家にも座敷ワラシ住めりといふこと、久しき以前よりの沙汰なりき。この神の宿りたまふ家は富貴自在なりといふことなり。

 ザシキワラシは男の児だったり女の児だったり。家に住んでいたり姿を見た人もいる。その、実在は気配。気配が住んだり姿を見せることは気配に身をゆだねると現れるよう。神々のいる気配のよう。気配は人以前からずっとあって。現在だって気配に生きている人もいるかもしれない。
食べるのも気配。電車に乗るのも気配。愛情も気配。空気を読むのも気配。言葉も…気配。
 気配で満ち足りる生き方。
そんな人、きっといる。そういう人、(ふいに)足を掬われて、さらわれて(現実はしばしばそういう人の足をさらう)自分で気づいた時は自分ごと消えている。だから、他人には気づかれにくい。だがたしかに「いた」のだ。でも、それは「存在」したのではなく、ただ「いた」のだ。それは事実なのだが証明するものはなにも、ない。アリバイなし。

 五四 閉伊川の流れには淵多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近き所に,川井といふ村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取り落としたり。主人の物なれば淵に入りて探りしに、水の底に入るままに物音聞こゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機を織りてゐたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまはらんといふ時、振り返りたる女の顔を見れば、二、三年前に身まかりたるわが主人の娘なり。斧は返すべければわれがここにあることを人に言ふな。その礼としてはその方身上よくなり、奉公をせずともすむやうにしてやらんと言ひたり。そのためなるか否かは知らず、その後胴引などいふ博奕に不思議に勝ち続け金たまり、ほどなく奉公をやめ家に引込みて中位の農民になりたれど、この男は疾くに物忘れして、この娘の言ひしことも心付かずしてありしに、ある日同じ淵の辺を過ぎて町を行くとて、ふと前の事を思ひ出し、伴へる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその噂は近郷に伝はりぬ。その頃より男は家財再び傾き、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人はなんと思ひしにや、その淵に何荷ともなく熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。

 気配に生きる人。足を掬われ、さらわれた人は水底に住む。水底の家。そこは、瓦礫に埋もれているかもしれない。常に水底の泥が噴き上がり視界がゼロ。光りも届かなければ暗黒。そこに住む人の眼は退化していくか異様に発達していく。形あるものを見るより、気配を見る、習性ばかりが発達していく。
 そこに住む人は、噴き上がる泥に、泥まみれになり泥の塊のようにも見える。泥の塊が息をすると、人の型が現れてくる。泥人間。立ち上がる時は、両手を水底にしっかり着け、両足を踏んばり、背中を山のように盛り上げ、背中から立ち上がる。泥人間が立ち上がる。
その時、「Wouu…」という声にならない呻きに似た声を発する。
泥人間が立ち上がると、泥が崩れ落ちて、気配だけの人型が水底に立っている。
 「wouu…」という呻きに似た声は、眠りについている未明にもよく発せられるようだ。そして、手足をバタバタ、ずんと強い力で突っ張り突き出し…。いつの間にか紛れ込んできた猫が、枕元にいつも一緒に寝ているのだが、
「猫が逃げ回っているぞ」
これは、水底へ時々訪れる男の数少ない証言であった。

気配はここにもある。それは、たいがい「死」と、そして「狂気」を孕む。
 ほら、目の前にも、背にも張り付いて。指先にも、言葉の影にも。殺意と狂気の気配がただよい潜んでいる。
引き受けて、日を暮らす。それは、もう逃がれられない。から…。
 それから、生きることはひどく孤独らしい。それが恐ろしくて、ごまかしをずいぶん、して、きた気がする。これからも、そうして生きていくのだろう。素敵な人とダメ人間と、猫と、言葉と、これからもいてくれるだろうか。そして、ザシキワラシがいてくれれば、いい。(?)(…)
どんどはれ
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『二兎』3号エッセイ1

『遠野物語』から各自好きな話を選んで書きました。番号は、本文引用部分です。 

    いかなる執着のありしにや
                徳弘康代

九九 土淵村の助役北川清という人の家は字火石にあり。…清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、*先年の大津波に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、遙々と船越村の方へ行く崎の洞のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はと見ればこれも同じ里の者にて津波の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言うとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明けまで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩いたりといえり。            *明治二九年三陸大津波

七七 …おひで老人の息子亡くなりて葬式の夜…軒の雨落ちの石を枕にして仰臥したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるようなり。月のある夜なればその光にて見るに、膝を立て口を開きてあり。この人大胆者にて足にて揺がしてみたれど少しも身じろぎせず。道を防げて外にせん方もなければ、ついにこれを跨ぎて家に帰りたり。次の朝行きて見ればもちろんその跡方もなく、また誰も外にこれを見たりという人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形と在りどころとは昨夜の見覚えの通りなり。この人曰く、手をかけてみたらばよかりしに、半ば恐ろしければただ足にて触れたるのみなりし故、さらに何もののわざとも思い付かずと。

 去年の夏、母を訪ねた時、母がこの間珍しく私の夢を見たと言った。私が押し入れの中にいて、母が私に「なにしゆう(何してるの)」と言った、というものだった。母に会う数日前、私は引越しをして、押し入れの中に入って汗だくで掃除をしていたのを思い出した。それが母の夢に出てきたのだ。不思議なようでもあり、起こりそうなことでもあり、母子というのはそういうものかと思った。八二歳の母にはレビー小体型認知症の症状が出ていて、その特徴的なものに幻視がある。他の人には見えないものが、はっきりと見えるらしい。震災の後、母のところを訪れる母にしか見えない人たちがたくさんあった。毎夜、大人も子供も、老若男女、動物も虫も。子供がソファに寝ていったとか、男の人がそこを通ったとかいうもので、母はその人たちに夜中よく起こされていた。昼間でもやってきていたようで、特に虫はたくさん湧いて出た。
 遠野物語九九・七七は、この世にいないはずの人が現れる話である。この他にも二二・二三・七九・八一・八二等、幻と呼べそうなものが登場する。二三に「いかなる執着(しゅうじゃく)のありしにや」と記されているが、この執着は死んだ人の方にあるのか、生きている人の方にあるのか、それとも相互にだろうか。思いを強く残した人がそれを発して、何かの気配を知る感覚、あるいは「症状」といわれるものを持っている人がそれを汲むのだろうか。大きな災害の後でこの世という私たちの社会があの世にいる人々への強い執着であの世の人々と呼び合い続けているのか、それが一八九七年に起きたように二〇一二年にも起きているのかもしれない。生きていた柳田がこの話を書きとめ、今生きている私たちがそれを読む。もう少しすればみんなあちら側だけれど、こちら側の人への執着が文字という記憶になって遺されている。
 たまに、あの世とこの世のあわいを行き来できる人がいる。その人たちには、あちらとこちらの境目辺り、そのどちらにあるか定かではない人たち、生きものたちの執着が見える。その人たちの「ここ」は、あの世でもあり、この世でもある。あの世とこの世はともにここにある。その近さ、あるいは同一感が遠野の世界のように思える。七七の石を枕に寝ている男は月明かりに妙にリアルで、母が私に話す「昨夜あった人」もいつも妙に現実的だ。九九の男女は、生き残った男の死んだ人への執着が見た幻覚なのだろうか。その幻覚は男を暫く煩わせ、その後現実へと向かわせる意味をもつものだったのかもしれない。それにしてもリアルな、この世でもそのまま起きそうな出来事は、津波で失ったものを近くに感じる人々と、亡くなった人々の魂が同じところにあるという気持ちを起こさせる。
 最近母を悩ませているのは二人の男の子で、その子たちの保育園の園長さんにその子たちがここにいることを知らせたいと母は言う。子供たちが助けを求めているというのだ。それを周囲の人に言ってまわっている。母は真剣だ。玄関から入ってきたのではない人たちのことは普通の人には見えないのだから、そのことを話すとお母さんが変に思われるだけ、その子たちはお母さんが助けるしかない、と言うと、どうやって、と聞かれた。天国へ行くように、成仏するように言ってあげられるのは、その子たちと話せるお母さんだけ、と母にこたえて涙が出た。
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